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【講演記録】夜高行燈の力

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夜高行燈の力  20140405@庄川生涯学習センター


「地域に根差した夜高行燈の活動」
庄川夜高若連中 副会長/石黒大輔 理事/大浦聡一郎


庄川観光祭における夜高行燈
他の行燈祭りは行燈が主役なのに対し、庄川は観光祭りの一部に過ぎない扱い。
また、運営が場当たり的。他の地区との交流が無い。他地区の祭りを知らない。
→夜行会などが刺激となって庄川夜高若連中を発足。

<実績>
夜高行燈に特化したチラシや看板を作成。
夜高行燈のPRに努めた。
夜高に熱い男はなぜか独身者が多い。なので次世代のことを考えて「夜高コンパ」を開催。




「ふるさと学習 種田の行燈について」 種田公民館/藤井館長

種田=種もみ生産が盛んな地区。
50年前にトッペ行燈の風習が途絶えたが平成5~24年まで20年間、トッペ行燈を道路沿いに飾っていた。
平成25年、庄川観光祭へのトッペ行燈の参加要請があった。
それまで観光祭にはなぜか関わりがなかったので、何とかしなければと思い、まず聞き取りなどしてトッペ行燈の歌をとりまとめた。なにせ50年前の歌なので、聞き取りが大変だった。
4月に母親クラブに打診した際、開口一番「そんな面倒なこと止めたほうがいい」と言われたが「やってみよまいか」との声があり、実施する方向に傾いた。
当日まで歌の練習と行燈の製作を行った。

まとめ
50年ぶりに伝統文化を復活することができ、地区のつながりを再確認することができた。種田に生まれてよかった、住んでよかった、嫁いでよかったと思える地域にしたい。




夜高行燈と我が人生  元庄川町夜高保存会事務局長/白山久一

夜高だけが自分の人生じゃない(笑)
昭和28年に庄川町制1周年を記念して観光祭が開催された。
呉東の宇奈月、呉西の庄川。湯治場として活気があった。小牧ダム建設や加越能鉄道の終着駅が商店街を栄えさせた。昭和30-40年くらいまで商店街には50-60件の店が鈴なりに軒を連ねていた。

庄川夜高について
中野、野村島から伝わったと小さい頃に聞いた記憶がある。
中野は樽神輿行燈があり、ぶつけ合いをしていた。
また、庄川は下村ではじまり、ぶつけ合いをしていた。
明治時代から昭和18年頃各村で子供行燈、中行燈が数台出ていた。
第1回目の夜高行燈の復活は昭和25年から昭和37年。
製作場所は藤永の米屋、貯木場跡地(今の宮窪建設)、トナミ運輸の倉庫など
大・中・小の行燈は、東山見・青島(権左島、中之島、畑直、清水、舟戸)で出していた。

小行燈は小学生以下、中行燈は25才以下・中高生、大行燈は25才以上が担った。
夜まで客を食い止めるため、昼にチンドンコンクールや歌謡ショーもあった。

観光客がみて、下から見上げた時にキレイな夜高が庄川夜高の基準。
福野は遠くから見てキレイな夜高を良しとする。

30年代頃からバッテリーと番線が導入された。
37年6月で中止になり、10年間夜高が行われなかった。
作り手がいない、金がかかる、場所が無い、若い人が夜高より遊びに。
2回目の復活は昭和47年6月9日。清水町の中行燈。

昭和49年に庄川町夜高保存会を設立。
若連中の意思統一、安全な練り回しの確保、規格の統一を行った。
以後、金沢の百万石祭りに2回出演したり、魚津のたてもんを呼んだり、
青森のねぶたの視察研修など。

夜高=地域の活性化と田祭りの伝承を守り継ぐ大切さ。

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