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シルバーウィーク4日目 〜パワースポット天柱石に降り立つ〜

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昨日は敬老の日ということで、みんなでケーキを。

今朝は妹家族がきたので、一緒に裏山に栗拾いに。
朝イチで行くと10数個拾い、2回目に別の場所に行くとバケツいっぱいに拾えた。


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しかし、先週の運動会の日とちがって突き抜けるような晴天だ。

昼ごはんを食べて、子どもを寝かしつけついでにドライブ。
せっかくなので、天柱石を目指した。



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天柱石は天頂石ともいい、松尾村立石として知られる。
「越の下草」には「住昔、金剛堂山の役の行者住まれし時、此石の上にて座行在りしに...」と書かれている。
ここは人形山、金剛堂山と並んで修験者登拝の伝説がある。



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胎内くぐりのような岩場もある。
まさしく修験の場という感じだ。

南砺市HPによると、
「上松尾にあるこの立石は古来より名勝になっており、神聖視されていた。
江戸時代に、天に立つ石として天柱石の名前が生まれたと考えられる。
山腹に、巨大な安山岩質の岩塊がそびえ立っている景観には圧倒され、
遠くからはるばる見物人が訪れるほどであった。」



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しかし天柱石はただならぬ雰囲気で、長く居る場所ではなかった。
なにかこう、パワースポットといえば薄っぺらいが、
ただの岩石の露頭と片付けられない感じがした。



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平図書館で調べ物をして、喜平商店さんにソフトクリームのリベンジ。
五箇山のゆるキャラ、とっぺちゃんがおつかれ気味だった(笑)


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ついでに上梨まで足を伸ばして、国重要文化財の村上家住宅にチェックイン
南砺市HPによると
「五箇山地方民家のうち、基本的な形式をもつ最もすぐれた建造物である。
合掌造りと呼ばれる家屋の中でも大規模の農家で、1重4階、切妻造り茅葺、
戸口は妻入り、間口35尺2寸、奥行67尺5寸ある。
石山合戦(天正年間)のころは建築中だったと伝える。建築手法からみると、
江戸中期をさかのぼらないといわれる。しかし、戦国時代の武家造りから書院造りに
移行する過渡期の様子を示し、多くの古風・古式の遺構がそのまま残っている。
昭和45年(1970)に解体修理を行った。」



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2階、3階には民具がたくさん展示されていた。
囲炉裏の煙でだいぶ燻されていたが。


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同じく文化財建造物である圓浄寺の鐘楼堂もパトロール。

南砺市HPによると、
「圓浄寺は、文政8年(1825)以来、小松本覚寺下上梨道場圓浄寺と称していたが、
昭和20年(1945)寺号認許を受けた。棟札によれば、弘化3年(1846)の建立、
棟梁は大窪村高木清五郎である。
形状、構造ともに床板張替え以外に修繕の跡はなく、
保存状態もよくて原形をとどめている。
村内各道場は幕末期に寺院形式へと改造され、鐘楼堂の建立はほとんどなかったが、
この上梨の門徒は浄財を集めて労役をいとわず、大窪大工の手による精巧な鐘楼堂を建立した。」




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圓浄寺から山沿いの小径を通って白山宮本殿の横に出た。
下梨では五箇山麦屋祭りの最中のようだが、こちらは静かだった。



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南砺市HPでは白山宮本殿について次のように書かれている。
「祭神は、白山菊理媛命で、十一面観世音菩薩妙理大権現の御神体を安置し、
現在は33年ごとに開帳される。
本殿の様式は、一間社流見世棚造板葺で、飾りも少なく簡素だが、
まことに要領を得た作品である。造建年代は、棟札より文亀2年(1502)ということわかる。
由緒によれば、越の泰澄大師が越中、飛騨国境の人形山頂に創建したと伝える。
後に兵火のため堂宇が焼失したが、小祠を建て、平安末期には現在地に移遷した。
昭和29年(1954)に解体修理を行った。」


ちなみに次回のご開帳は平成31年(2019)5月11・12日だそう。


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家に戻って、夕飯まで時間があったのでロードバイクで出撃。
が、風邪をひいたので登りで息が苦しくなってしまい、途中で引き返した。
帰り道、東山の樹間から夕日が差し込んできて、まぶしかった。

さて、砺波に帰ろう。

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