昨日は敬老の日ということで、みんなでケーキを。
今朝は妹家族がきたので、一緒に裏山に栗拾いに。
朝イチで行くと10数個拾い、2回目に別の場所に行くとバケツいっぱいに拾えた。
天柱石は天頂石ともいい、松尾村立石として知られる。
「越の下草」には「住昔、金剛堂山の役の行者住まれし時、此石の上にて座行在りしに...」と書かれている。
ここは人形山、金剛堂山と並んで修験者登拝の伝説がある。
胎内くぐりのような岩場もある。
まさしく修験の場という感じだ。
南砺市HPによると、
「上松尾にあるこの立石は古来より名勝になっており、神聖視されていた。
江戸時代に、天に立つ石として天柱石の名前が生まれたと考えられる。
山腹に、巨大な安山岩質の岩塊がそびえ立っている景観には圧倒され、
遠くからはるばる見物人が訪れるほどであった。」
しかし天柱石はただならぬ雰囲気で、長く居る場所ではなかった。
なにかこう、パワースポットといえば薄っぺらいが、
ただの岩石の露頭と片付けられない感じがした。
なにかこう、パワースポットといえば薄っぺらいが、
ただの岩石の露頭と片付けられない感じがした。
平図書館で調べ物をして、喜平商店さんにソフトクリームのリベンジ。
五箇山のゆるキャラ、とっぺちゃんがおつかれ気味だった(笑)
ついでに上梨まで足を伸ばして、国重要文化財の村上家住宅にチェックイン
南砺市HPによると
「五箇山地方民家のうち、基本的な形式をもつ最もすぐれた建造物である。
合掌造りと呼ばれる家屋の中でも大規模の農家で、1重4階、切妻造り茅葺、
戸口は妻入り、間口35尺2寸、奥行67尺5寸ある。
石山合戦(天正年間)のころは建築中だったと伝える。建築手法からみると、
江戸中期をさかのぼらないといわれる。しかし、戦国時代の武家造りから書院造りに
移行する過渡期の様子を示し、多くの古風・古式の遺構がそのまま残っている。
昭和45年(1970)に解体修理を行った。」
2階、3階には民具がたくさん展示されていた。
囲炉裏の煙でだいぶ燻されていたが。
同じく文化財建造物である圓浄寺の鐘楼堂もパトロール。
南砺市HPによると、
「圓浄寺は、文政8年(1825)以来、小松本覚寺下上梨道場圓浄寺と称していたが、
昭和20年(1945)寺号認許を受けた。棟札によれば、弘化3年(1846)の建立、
棟梁は大窪村高木清五郎である。
形状、構造ともに床板張替え以外に修繕の跡はなく、
保存状態もよくて原形をとどめている。
村内各道場は幕末期に寺院形式へと改造され、鐘楼堂の建立はほとんどなかったが、
この上梨の門徒は浄財を集めて労役をいとわず、大窪大工の手による精巧な鐘楼堂を建立した。」
圓浄寺から山沿いの小径を通って白山宮本殿の横に出た。
下梨では五箇山麦屋祭りの最中のようだが、こちらは静かだった。
南砺市HPでは白山宮本殿について次のように書かれている。
「祭神は、白山菊理媛命で、十一面観世音菩薩妙理大権現の御神体を安置し、
現在は33年ごとに開帳される。
本殿の様式は、一間社流見世棚造板葺で、飾りも少なく簡素だが、
まことに要領を得た作品である。造建年代は、棟札より文亀2年(1502)ということわかる。
由緒によれば、越の泰澄大師が越中、飛騨国境の人形山頂に創建したと伝える。
後に兵火のため堂宇が焼失したが、小祠を建て、平安末期には現在地に移遷した。
昭和29年(1954)に解体修理を行った。」
ちなみに次回のご開帳は平成31年(2019)5月11・12日だそう。
家に戻って、夕飯まで時間があったのでロードバイクで出撃。
が、風邪をひいたので登りで息が苦しくなってしまい、途中で引き返した。
帰り道、東山の樹間から夕日が差し込んできて、まぶしかった。
さて、砺波に帰ろう。