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福野夜高の御蔵町はなぜケンカ(引き合い)で中立的立場にあるのか?

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5月2日に福野夜高祭に行って、見学させてもらった呉服屋さんから
「御蔵町は中立的立場にあるのでケンカ(引き合い)には参加しない」
聞いた。「どうして中立なのか?」と聞くと
親父さんも息子さんも「そんなこと聞く?」という表情で
「わからない」との返答が。そもそも御蔵町が中立だというのは
福野夜高にとって超基本的なことで、当たり前のことという感じで
今まで考えた事も無い、そういう雰囲気だった。

なので余計に気になって(笑)、昼休みに少し調べてみた。

前回も書いたように、
福野は7つの町内浦町(うらまち)、辰巳町(たつみちょう)、横町(よこちょ)上町(かんまち)、七津屋(ななつや)、新町(しんまち)、御蔵町(おくらまち)があり、御蔵町だけはケンカに参加しない。

なぜ御蔵町だけ?
疑問は残るが、ケンカは残りの6町で行われる。
福野夜高祭のHPによると
下り行灯(北向きに並ぶ)の(並び順、年によって変わります)辰巳町、浦町、横町を、上り行灯の新町、上町、七津屋が通りすぎるとき、相手の山車、吊物を壊す。外形の竹、木を掴んで引きちぎる、蹴り壊す、下り行灯は台棒を振って進路を阻み、上り行灯も台棒を振り噛み合った横棒を押し返し、進路を開け通りすぎる。御蔵町は下り行灯の後ろに並ぶが、中立でケンカはしない。


では、そもそもなぜ「御蔵町」という名称なのか。
それは簡単。加賀藩時代に公的な倉である「御蔵」があったことに由来する。

なにかと便利な福野ものがたりには次の説明がある。

江戸時代には農民は、藩へ年貢米(税金)を納めました。

「御蔵(おくら)」は藩の施設で、米貯蔵用の御蔵には、
収納蔵(しゅうのうぐら)、作食蔵(さくじきぐら)、中出(なかだし)蔵(ぐら)と町蔵(まちぐら)がありました。「町蔵」は、藩の家臣たちの俸禄(ほうろく)米(まい)を出納(すいとう)し、その保管と売却を行った蔵です。
元文5年(1740) 御蔵町1339(現福野中学校地)に、付近の村々からの願い出によって、加賀藩の福野御蔵が置かれました。初めは、四棟一○戸前でした。その後は、弘化4年(1847)に一棟二戸前、嘉永元年(1848)計小屋一棟、慶応元年(1865)一棟二戸前が増設されました。
慶応元年九月の砺波郡井口組福野御蔵見取絵図には、敷地の四方が掘と土居に囲まれ、正面にあたる北西中央に一ヶ所入口門があります。堀は御蔵へネズミが入るのをふせぐためのものです。明治になり御蔵が不要となったので、明治6年(1873)5月には福野小学校の校舎となり、同年、さらに、県の教員養成のための新川県講習所の校舎に使用されました。


抜粋ここまで。

なるほど、なるほど。
今の福野中学校のあるところに加賀藩の御蔵があったのね。
町の中心から見て御蔵の手前にあるから「御蔵町」なのね。

ついでに「文化元年 砺波郡中出蔵・作食蔵等覚」を紐解いてみると、
福野御収納蔵の項には
「四間拾五間 三戸前 福野御収納蔵
 但、福野村領請地仕、元文五年蔵下四拾六ヶ村より相建申候」
とあり、

つづいて
「四間弐拾間 三戸前 同所作食蔵
 但、戸出組・三清組定作食積入候得共、当時御収納蔵ニ相成申候」
とある。


ふむふむ。御蔵町の由来はわかった。
じゃあ、なぜケンカに参加しないのか。この辺はどうなんだろう。

やっぱり福野夜高といえば「万燈」にあたるしかないでしょ。
ということで、パラパラとめくって「福野夜高年表」に目をやると
1895年(明治28)に気になる記事が。

5月1日、御蔵町行燈、浦町桂井他八郎前(現在の北銀の駐車場付近)において倒壊焼失し、相手方浦町を告発、浦町詫書と弁償で和解成立する。

うーん、なんとも物騒な記事じゃないか。
1650年(慶安3)からこの記事まで御蔵町の名前は出て来ないので
なんとも言えないが、少なくとも1895年の時点では御蔵町はケンカに参加していた可能性がある。でないと「相手方」と表現しないだろう。

そのあと、とくに大正から昭和初期にかけて
「浦町と新町が大喧嘩」「夜高行燈の喧嘩、小ぜりあい」「七津屋、新町側が横町行燈を倒壊破棄し告訴される。新町、七津屋、横町の関係者二十数名、傷害罪・暴行罪で取調べを受け起訴される模様」云々、
どうにもこうにも凄い記事が多いなか、御蔵町の名前は出て来ない。

ここで気になる記事が。
ケンカの際の下り行燈と上り行燈の町についてである。
現在は先にも書いたように下りは辰巳町、浦町、横町、上りは新町、上町、七津屋。

そうなった経緯が書いてある。P45
福野町四町が、横町・浦町対新町・上町の対立となるのです。
それに浦町から分家した辰巳町(新道)は本家の浦町方へ、
上町の分家の七津屋は上町方へ。


なるほど、なるほど。

本題からは外れるが、御蔵町は夜高の先進的な町だったらしい。
昭和23年、他町に先駆けて自動車のバッテリーを積んで初めて電球を点灯したり、昭和10年代に派手な法被を作ったりしたそうだ。

へー、今の出町や庄川や津沢でも行われている方法の原点は御蔵町にあったのか。まるで流行の発信基地のような町なんだね。

さてさて、ケンカの話に戻ろう。
またまた気になる記述がみつかった。P46

 ただ町の中心部にある御蔵町は、初日は上町側で、二日目は浦町側につく日和見的な存在なのです。
 “けんか”は、二日目が本格的に始まります。御蔵町は当然浦町側ですが、こちら側(上町・七津屋・新町)は、浦町とけんかをしても、御蔵町とは引き合いをしないのです。若し手を出したりしたら、手を出した側が笑われるのです。だから絶対に手を出さないのです。
 その為、御蔵町は引合をしない代わりに、”優美さ“の追求を試み、よく行燈の作り変えを行いました。
 戦後、商工会主催で美を競う催しを行うようになると、御蔵町は、塚本さんを中心に色々設計して、弁慶で優勝したのを皮切りに連続的な優勝を見ました。


なるほど。
御蔵町は美しい行燈を作るのに長けていたのか。

さすが「万燈」。いろんな事がわかるじゃないか。
こりゃあ出町、庄川、津沢でも同じようなレベルのものを作らないと。
ああ、待ち遠しい。。。

とか言ってる場合じゃない。
やっぱり御蔵町がケンカをしない理由がよくわからない。

もしかすると1895年の例の記事が原因だったりして。
御蔵町と浦町がケンカしたら行燈が倒れて燃えてしまった。
浦町は告発されたうえに詫び書と弁償までさせられた。
案外、そのことが未だに尾を引いているのかも知れないね。

一応、これを仮に「1895年説」と命名しておこうか。

とはいえ、やっぱり分からないので
この辺に詳しい人がいたら教えてください。
情報お待ちしております。

TSTのホームページより

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