(2014.2.19北日本新聞)
朝、NHKの地方版ニュースを見ていると
トップニュースで立山・黒部山岳遺跡調査委員会のことが取り上げられていて驚いた。
江戸時代の「禅定道」跡
北日本新聞によると、
“江戸時代に立山信仰で使われた旧登拝道、いわゆる「禅定道」跡が立山の千寿ケ原から雄山山頂の間で確認され、18日に県民会館で開かれた立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会(委員長・黒崎直富山大名誉教授)で報告された。禅定道は明治期の略地図などで存在は知られていたが、ルートを特定する遺構は見つかっていなかった。調査に当たった県埋蔵文化財センターの久々忠義主任専門員は「登拝ルートの全貌が明らかになり、当時の信仰登山の様子が具体的に分かる」と話している。”とある。
「弥陀ヶ原で姥石発見」の見出しにつづいて
“調査は立山・黒部地域の世界文化遺産登録に向けた資料収集を目的に、5年計画で実施。禅定道は千寿ケ原から雄山山頂までの約20キロで、4年目の本年度は、千寿ケ原-天狗平間約13キロを調べた。過去の調査と合わせ、ルート沿線にあったとされる雄山神社の末社36ヶ所のうち、27ヶ所を確認。ブナ平や弥陀ヶ原では、くぼ地となった幅40~60センチの登拝道跡も見つけた。”
“さらに弥陀ヶ原では立山曼荼羅に描かれた姥石(うばいし)を発見した。女人禁制を犯して入山した尼が罰を受けて石になったといういわれがあり、江戸時代には信仰登山の人々が訪れる名所となっていた。姥石のくぼみには高さ59センチ、幅25センチの石仏が置かれ、「右うはいし道」などの文字が刻まれていた。”
“材木坂と美女平の間、美女杉坂下では江戸時代末期に金沢の町人が禅定道用に寄進した地蔵石仏も確認した。最終年の2014年度は、弥陀ヶ原などの現地調査や剱岳山頂遺跡の測量などを行う。”
とのことである。
あ、そうか。
そういえば世界遺産の登録を目的にした調査だったっけ。
立山は調査を続けているからいいけど、
高岡の近世遺産は近ごろ音沙汰なしだがどうなったのだろう?
いつのまにかフェードアウトしていった感じだな。
それはさておき、富山新聞では
禅定道を「姥ケ懐道(うばがふところみち)」と紹介している。
(2014.2.19富山新聞)
そして、事務局側からの報告として“金沢の興行師、綿津屋政右衛門が江戸時代末期に寄進したとされる石仏”が確認された、と北日本新聞よりやや詳しく報じている。
また、時枝務立正大学教授が「立山の宗教空間」と題して講演したことにも触れている。時枝さんとは昔、山の考古学会で何度かご一緒したことがあるのでちょっと懐かしくなった。
また、読売新聞を見てみると
“同センターが昨年8月、立山有料道路近くの沢筋にある廃道「姥ヶ懐道」の標高1979メートルで発見した。石は縦2・5メートル、横2・2メート ル、高さ1・8メートル。石の上のくぼみには、天明3年(1783年)の銘がある高さ59センチの石仏が安置されていた。石仏は錫杖(しゃくじょう)と宝 珠を持つ地蔵立像。光背には「天明三卯六月廿四日 右うはいし道」の文字が刻まれており、姥ヶ懐道は当時、「姥石道」と呼ばれていた可能性があるという。
同センターによると、この石は1960年、奈良国立博物館長だった石田茂作博士が調査し、石仏が上に安置された石のスケッチを残していたが、その後所在がわからなくなっていた。
同委員会にオブザーバーとして出席した米原寛・前立山博物館長は「すばらしい発見」と評価し、「道標があるということは、もう一本道があるはず」と指摘した。”
と報じている。
ことのほか、50年ぶりに石仏が確認されたことを強調している。
おもしろいのが、米原寛氏のコメント。
なんとも会議の空気感を伝えている。
と各社それぞれに報じ方に違いはあるが、
どの社もおおむね大きな扱いの記事となっている。
今朝、facebookで記事を書いたら、さっそく立山信仰の専門家からリアクションがあった。
やはり専門家にとっても注目すべきニュースなのだろう。
今後も立山信仰に関する調査が進展し、
広く情報発信されることを願ってやまない今日このごろである。