20121215 高岡城の魅力を語る講演会 @高岡市ふれあい福祉センター
<高岡城を分析するー築城経緯・立地・構造ー 滋賀県立大学准教授 中井均>
縄張り・・・グランドプランが城の生命線。
高岡城は縄張りが完存。残りの良さでいえば姫路城よりずっと上。
2009年、富山考古学会のフォーラムを開催。
100名城のひとつ。スタンプ帳を持っている。
小竹藪に「折り」が設けられている。
◆築城経緯
慶長14、1609年に築城。この時期、関ヶ原の合戦後で極度の軍事的緊張があった。
その緊張状態が生み出した城ではないか。(単なる隠居城ではない!)
無地に城を新しく築くことは稀。利長は以前から高岡の地に築城意図があったのでは?
本城ー金沢城、
支城ー富山城、高岡城、小松城、大聖寺城、松任城。
対豊臣を意識して徳川から高岡城築城を認められた経緯があり。
国境線に強力な防御施設を備えた城を作った。
◆立地
高岡台地の先端に選地。「後ろ堅固の地」他三方に兵力を投入できるメリット。
西の城下町と本丸側の落差に愕然とした。
千保川が城下の外縁を流れ、防御と運搬の両方の役割を担った。
築城期間が短いのは川によって材木を運搬したから。
台地上に城郭と武家屋敷を配置。
台地下に町屋と寺町を配置。
北陸道を城下内で何度も折れ曲げて配置。
◆構造
穴太衆。前田家が早い段階から穴太一族を登用していた。富山城築城に関わる。
当然、高岡城の石垣造成に関わっていたと考えられる。
守りの強い西側は堀が一重、東側は二重。
北側は三重の予定だった?絵図からはプランが読み取れるが計画倒れに終わった可能性あり。
馬出し
二の丸、鍛治丸、三の丸、明け丸はすべて馬出し。
本丸にいくつもの馬出しがつく、というのが高岡城の縄張り。
加納城→高岡城の構造と基本的に同じ。
慶長年間によく使われる特徴的な縄張りといえる。
ひとつの法則にのっとった城作り。高岡城もそのひとつ。
天正13の佐々成政征伐の際に前田利家により築城された安田城や大谷城は同じような
馬出しをもつ。
本丸+角馬出し・・・聚楽第型城郭(豊臣系城郭)
本丸+出枡形・・・加納城型城郭(徳川系城郭)
◆高岡城の謎
小竹藪は「城外」と描かれるが、三の丸の馬出しとしての機能が考えられるので
城外とするのはなぜか。計画倒れに終わったことが要因?
大手土橋の石垣は残りが良すぎるが、ここにしか残っていないし、
慶長年間とするには違和感がある。
⇩
1875年に射水神社遷座の際に崩れていた石垣を積み直したものか。
高山右近縄張説
右近が前田利家に仕える前に縄張りはすでに導入されていた(佐々征伐)。
右近の記録は江戸時代以降にしかない。伝説か。
◆おわりに
縄張りは江戸時代の姿をほぼ留めている。
「古御城」の意味。なぜ廃城後も城下町が残されたのか。
武家を食わすために城下町を存続。「利長の聖地」として利常は残した可能性。
いつかまた城を作ることに備えて城下町を残したのではないか。
元和の一国一城令
前田家は加賀、能登、越中を有しているが、認められたのは金沢城のみ。
つまり、一国一城といいながら一藩一城。
なのに、「破城」されてない。普通は堀を埋め、石垣を崩すのに高岡城は残っている。
機能は残されている。建物は除去しているが。
よって前田家、加賀藩にとって高岡城は廃城ではなく実質は城として存続し続けた。
なので「古御城」という呼び名だった。「古城」ではなかった。
↧
【講演録】高岡城の魅力を語る講演会
↧